知的障害・自閉スペクトラム症(ASD)の子育て記録|夫婦での意見の相違

こんばんは、ぺいです。

療育の教室で次男(中等度知的障害&自閉スペクトラム症(ASD))が最近、言葉や数について習得ここのところの急速に習得しはじめ、「今が伸びどころかもしれませんね」と皆で楽しみにしていました。

長男(軽度知的障害&自閉スペクトラム症(ASD))の方はというと勉強は嫌いだけれども、ゲームであれば計算を進んでするということが分かり、これは工夫の余地があるかもしれないという発見もありました。

今回は少し視点が変わって、妻と私の違い、という部分について触れていきたいと思います。

考えてみたらあまり妻の事を書いていないなと思い、私との違いやそのことに対する捉え方について整理していこうと思います。

【子供達の障害】

長男:軽度知的障害(IQ64)&自閉スペクトラム症(ASD)。小学校2年生

次男:中等度知的障害(IQ49)&自閉スペクトラム症(ASD)。小学校1年生


目次

夫婦間の違い

※先に強調する点として良し悪しの話では全くありません

表にまとめてみるとこんな感じです。

項目私の場合妻の場合
子供への接し方知的障害と自閉スペクトラム症(ASD)を前提に意識しすぎて接する症状についてあまり意識しているようには見えない
将来設計や進路への考え方大人になってからの逆算で、10年以上先のことから今を考える今のことを中心に考える
療育の必要性に対する温度差療育に積極的に行かせたい最初は療育に反対だった
情報収集の頻度知的障害やASDに関する情報をとにかく調べまくるあまり調べないが、同じ支援級のママ友から話を聞くことはある

なぜ意見が食い違うのか?(仮説)

性格の違い

私の場合はどちらかというと「計画的に理論的に、長期的な未来を見て今を逆算する」ことが多い人間です。対して妻はどちらかというと「感覚的・直感的に今を大切にして判断する」ことが多いように感じます。

物事の考える起点が異なるわけですから実際に差が生じてしまうのも当然と言えます。

ただ、子供に対して障害というフィルターを通さず、子供そのものと向き合おうとしている妻の方が本質的には親としてあるべき姿なのだと思います。

症状に対する需要段階の差

障害需要過程という考え方があります。

段階内容の説明保護者の典型的な反応例
① 衝撃(Shock)初めて障害の事実を知ったときの強い動揺・混乱。現実感がなく、感情がマヒすることも。「信じられない」
「まさか、うちの子が…」
② 否認(Denial)事実を受け入れられず否定しようとする。誤診と思いたがったり、比較対象を探して安心しようとする。「きっと検査が間違ってる」
「少し発達が遅れてるだけ」
③ 悲しみと怒り(Sadness/Anger)将来への不安・喪失感と共に、怒りや自己責任感・罪悪感が生まれる。感情が強く揺れる時期。「どうしてこの子なの?」
「自分のせいかも」
④ 適応(Adaptation)現実に少しずつ目を向け、どう関わっていくかを模索し始める。支援情報を集めたり相談を始める。「どんなサポートがあるか調べよう」
「療育を始めてみよう」
⑤ 再起(Reorganization)障害のある子どもと共に生活を築くことを前向きに捉えられる段階。新たな価値観や目標が芽生える。「この子のペースで成長すればいい」
「家族で力を合わせよう」

私の場合、比較的早く妻よりも先に⑤の段階に行ったと思います。

これはシンプルに私が仕事柄、生活に困っている人や知的障害者と接する機会がそこそこあったからかもしれません。

また、妻には子供が「普通とは違う」と明確にされることへの抵抗感や、「子供に無理をさせたくない」という気持ちがあったのかもしれません。

変化に対する実際の負担

療育に行くとなるとパートタイマーで働いている妻の方が時間的負担が増える割合が多くなります。

可能な限り長男の学校の送り迎えをするようにしたり、書類作成及び提出はやるようにしましたが、それでも妻の負担増加は大きいです。

この状況では「では明日から療育に行こう。準備や送り迎えをしよう」とはそれはならないですよね。


我が家のすれ違いと乗り越え方(体験談)

実際にケンカになったエピソード

療育に行かせるか否か、が一番揉めました。

「療育に行かせるべきだ!」「じゃああなたが連れて行ってよ!」という具合ですね(笑)

ただ、ここは最終的には「後でやっておけばよかった、ということになった時に時間は戻せない」ということで療育を受けさせることになりました。

感情的に怒ってしまう妻、それに対して感情的に怒る夫

妻はどちらかというと直感的、感覚的な判断が多い人間です。怒る時も大人が引くくらい感情むき出しです。

私は障害があろうがなかろうが子供に対して感情をむき出しにして怒鳴りつけるのは反対です。

妻は我慢の限界を超えるとそのように接することもあります。そうなるとさらに早口に無茶なことも言います。

たとえば発語がまだ無い子供に「わからないわよ!何とか言ったらどうなの!?」みたいな感じですね。

最初は妻と子供の前で「そんな言い方はないだろう!」など大喧嘩していました。

今は、怒鳴ることそのものは止めずに、「わかったここ先からは僕の方で注意するから」といって止めた後、私から注意するようにしています。

理由は次の通りです。

①確かに妻が怒るのも無理はないことをされている

②子供の前で喧嘩することでの子供へのリスクがある

③そもそも世の中に出ればこうやって怒る人なんてザラにいる(正直これが一番大きいかも)

私からは次のように言っています。

①次どうすればいいか?考えてもらう

②わからない場合は端的にアドバイスする。その後私からしたアドバイスを自分自身を説明してもらう。
(伝わったかどうかの確認のため。伝わっていないならもう一度説明)

無駄に喧嘩するよりこっちの方が楽ですね。

それでもたまに喧嘩しますが(笑)


違いが悪いことではない

理論的・構造的・客観的な視点が好きな私と感覚的・関係重視の妻の場合、当然に意見は分かれますが、その意見の違いそのものは悪い話ではないと思います。

私はともすれば一人の子供ではなく、障害児、として見てしまうこともありますし、それを一人の子供として見る妻が補ってくれている感じもあります。

また長期思考が好きな私と今を大切にする妻、これはどちらの視点も重要だと思っています。車の運転をする場合も遠くを見たり近くを見たりしますよね?どちらかしか見ない運転は事故に繋がってしまうでしょう。

また、新しいことを積極的にやりたがる私に対して、そういった新しいものに慎重な妻、という構図は私が取りがちなリスクを抑えてくれているようにも感じられます

まとめ

当たり前といえば当たり前ですが夫婦の形はそれぞれで、補っていければいいのかなと思います。

子供からすれば違う視点の大人がいずれも自分の味方である、ということなのですからこれもいい形なのだと思います。


いやでももう少し、もう少しでいいから障害者の制度やお金なんかも勉強してほしいなぁ~、とも思ったり(笑)

皆さんの体験談なんかもコメント欄で教えていただければ幸いです


知的障害があるけどゲームなら計算の勉強ができる

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