障害者育児の「自立」について、もう少し考察してみる

こんばんは、ぺいです。

先日従妹の結婚式に家族で御呼ばれしたので参加してきました!

右から長男、次男、二人のはとこですね。

長男が自分から声をかけにいって、あっという間にはとこと仲良くなりました。

さて、今日はちょっと改めて、「自立」について考えてみようかなと思います。

育児のゴールが子供の自立の援助、ということを考えるとこの自立について突き詰めていくことは今後の選択肢について大きく外すことなく選べると思っているからです。

目次

全体の構造

私はについて「生活の自立」「経済の自立」「精神の自立」に分けて考えています。

この3つ揃って将来子供が幸せに生きる土台ができると思っています。

幸福に対する考え方

一部勘違いがありそうなので補足しますと、「自分の幸せを犠牲にして子供の幸せを願っている」わけではありません。

私が小学生のころからやっている少林寺拳法では、

「半ばは自己の幸せを、半ばは他人の幸せを」(自他共楽)

という考え方があります。

自分と他人で幸せを半分ずつにする、という意味ではありません。

自分の幸福追求が他人の幸福につながり、他人の幸福が自分の幸福になる。だからこそお互い「半分」ではなく、「二倍」になる、そういう社会がいいよね、という考え方なわけです。

人間誰しも決して悪い意味ではなく「自分が一番大事」だと思っています。

世界の誰も自分のためには生きてくれない、唯一の例外が赤ん坊にとっての母親くらいでしょうか。

誰もが自分が一番大事、だけれども皆が皆他人の事を蔑ろにし、完全な自分本位に生きてしまったらこれも不幸な人を量産してしまいます。

だから「自分の幸せを追求した結果、周囲の人も幸せになる」が個人的には良いのかなと思っています。

もちろんこれは私の価値観であって万人に共通するものではないとも思っています。

私がこの方がいいと思っているのは、自分を犠牲にすることって長続きしなくないでしょうか?子育てはたとえるなら短距離走ではなくマラソンです。一時的な頑張りは継続性が無いと思います。

生活の自立

【私の現時点での定義】

健康的で元気に生活していける。

できることは増やしつつ、どうしてもできない、苦手なことは他人やお金の力を借りてもいい。

お互いに健康的に元気に、楽しく生活できるなら、自分でできることだって他人やお金の力を頼っていい。

今のところ、このくらいの感覚です。

現時点の、今のところ、という言い方をしているのはもっともっと考えていったらもっと良い表現があるかもしれないからです。

さて、生活の自立についてその定義を「自分で身の回りのことを何でもできる」としてしまうとちょっと違和感が出てしまいますよね。

そもそも現代社会において自分で何でもできる人、いないんじゃないでしょうか?

一切のお金の力を借りないのなら人類は自給自足の生活に逆戻りです。

大前提として「人間は一人では生きられない」のだから「一人で何でもできる」は何だか違う、となりますよね。

それでも「暴飲暴食で健康を著しく害さないように規則正しい食生活を選択できる」「掃除をしない、何日もお風呂に入らないなどあまりにも衛生面に問題はありすぎる」では健康的に元気に生活できないので、一人暮らしや結婚生活を営む上で最低限の栄養や家事に関する知識、スキルは必要なわけですね。

もちろん、一人暮らしなどがどうしても難しく、グループホームや入所施設の利用をすることが健康的で元気な生活、に結び付くのであればそれが生活の自立と考えても良いと思います。

だからこそ「生活の自立」は次の「経済の自立」と密接に関連しています

経済の自立

【私の現時点での定義】

現在と未来のお金がしっかりと回る状態にすること。

これも「自分で稼いだお金で食っていける」のように表現してしまうと、障害年金で食べていかざるを得ない人はそもそも自立が不可能という話になってしまいますし、「自分が稼いできたお金」といっても大本は「誰かが稼いだお金を売上としていただいて自分の給料になる」わけですから結局自分以外の誰かは介在してしまうわけです。

給料は良くて年金はダメ、というのも何だか違和感ありますよね。そんなこと言ったら世の高齢者のほとんどが自立していないことになってしまいます。

それにお金を回すのは何も収入だけの話ではありません。

今だけでなく将来のお金もきちんと回そうと思ったら収入、支出、貯蓄、投資など幅広く設計してあげる必要があります。子供の経済の自立を考えるならこれらを包括して教えていく必要があります。

また、この経済の自立、子供だけでなく、親の事も考える必要があります。

親の未来のお金もしっかりと回していかないといけませんからね。うっかりすると老後に子供の資金援助なしではお金が回らず、自分自身が経済の自立から離れてしまう、ということも普通に起こりうる話です。

精神の自立

【私の現時点での定義】

①自分の人生は自分で決め、自分で責任を取ること

②他人との適切な距離感を保ちつつも、与える喜びを知り、助け合っていけること

③特定の人やものに依存しないこと

④無いものを求めるのではなくあるものをどう活かすか考えること

⑤感謝の気持ち、挑戦の意欲、素直な心と行動力をちょっとだけでも持つこと

私自身胸を張ってできていると言い切れないこの内容ですが(笑)、だからこそ子供と一緒に成長して目指して行こうと思っています。

正直、この精神の自立が最も表現が固まっていません。まだまだ突き詰める要素は大いにあります。

何か複雑なんですよね、言いたいことが言えていない感覚があります(笑)

なお、厚生労働省は障害者の自立の概念を次のように説明しています。

「自立」とは、「他の援助を受けずに自分の力で身を立てること」の意味であるが、福祉分野では、人権意識の高まりやノーマライゼーションの思想の普及を背景として、「自己決定に基づいて主体的な生活を営むこと」、「障害を持っていてもその能力を活用して社会活動に参加すること」の意味としても用いられている。

今日の社会福祉の理念
本人が自らの生活を自らの責任で営むことを基本としつつ、それだけでは生活が維持できない場合に必要な援助を行うという考え方(「自立支援」)こうした理念を具体化したものとして、福祉サービス利用者の自己選択、自己決定の実現を目指す仕組みの構築

厚生労働省HPより抜粋

感覚としては①の自分の人生は自分で決め、自分で責任を取ること。に近いのかな、とも思いますし、社会参加の概念は経済の自立や②の助け合っていけるという部分が近いのかな、とも思います。これはこれで良い考え方だと思います。



さて、私が精神の自立を重視する理由は私自身の経験にあります。

私は20代前半、税理士資格取得のため、アルバイトしながら勉強に明け暮れていました。

そういう生活をすると「偉いね」「すごい」と言われることは多くても「ありがとう」と言われることが少なくなります。

一方、同世代の友人たちは社会に出てドンドンスキルアップしていきます。

そうすると、自分だけが取り残されていく感覚で心が暗くなっていくのがわかりました。

今ではこの時のことを私は次のように理解しています。

・自分が誰かの役に立っている感覚が無い

・自分が成長している実感が無い。結果、自分に自信が持てない

それでもまだ目標がある試験を受けている間は大丈夫でした。

異変が起きたのは合格直後です。

何故か「死の恐怖」を四六時中連想するようになり、涙が止まらず、強烈な不安感から近くのカウンセラーの先生ところに予約もせず駆け込みました。何かを察してくれたのか驚きながらも話を聞いてくれました(その節は大変申し訳ございませんでした・・・)

正確な診断名はわかりません。一種のパニック障害のようなものだったのか、誤魔化し続けた不安が爆発した、そんな感じでした(なお、その期間中にした仕事はミスだらけで、それが半年後くらいに一気に発覚して本当に大変でした・・・)

結局、お金があって食べていけるだけでは幸せにはなれないと悟ります。

物事をどのように捉えられるのか、それが本当に大事なんだそう思って精神の自立を自立の要素の一つに入れています。



皆さんのご意見もいろいろとあると思います。

私自身の考えもまだまだ考察をし続けなければいけないでしょう。

もしよかったら皆さんのお考えもお聞かせください。

それではお互いいろいろと大変なことはありますが、元気に生きていきましょう。

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