
こんにちは、ぺいです。写真は放課後デイサービスにて年下の子と剣を使ったごっこ遊びをした際に、「やられたー!」と負けてあげている長男です。いつのまにか悪役もできるようになっていたのか(笑)
今回の大きなテーマは早期発見、早期療育についてです。本記事では、「偏見によって早期の支援が阻まれ、それがさらに偏見を強める悪循環」について、自身の経験から考えをまとめました。
今回は考え方のお話です。SNSを中心に「発達障害や知的障害のある人は危ない」「関わると迷惑」「隔離をしておけ」そんな言葉を耳にしたことがある人は多いでしょう。
こうした感情を持つこと自体は自然で、やむを得ないものだと私は思います。大切なのは、その感情を「持ってはいけない」と否定するのではなく、どう向き合うかではないでしょうか。多様性を根拠に障害者を受け入れてほしいと主張するのなら、障害者が苦手だという感情そのものも否定はできないと考えます。うっかりすると逆差別を生みかねないからです。
ただし、SNS等で強い言葉で障害に対する事実や科学的根拠に基づかない偏見を声高に述べてしまうことは問題と考えています。偏見が支援の機会を奪い、結果的に社会に適応しにくい人を増やしてしまうという現象です。
偏見が生む悪循環モデル
偏見と適応困難は、相互に強化し合うループ構造を持っているのではないか、と考えています。
1. 社会の偏見:「障害者は危ない」など、イメージや感情が先行する偏見。
「障害者は危険」「支援級に行ったら将来は狭まる」など、根拠の乏しい思い込みがあるとします。
この価値観はメディアの描き方や過去の断片的な事例などから強化され、事実よりも感情やイメージが優先されがちです。
2. 親の否認とレッテル回避:親自身の不安や周囲への配慮から「うちの子は普通」と言い張る傾向。
こうした偏見を前に、親は「うちの子は普通」と言い張りたくなります。
「障害者であること」=不幸である、社会の偏見の目に晒される。
あるいは自分自身がその偏見に縛られていたらなおのこと、障害を受け入れられなくなるでしょう。
障害を認めることは、わが子への差別や排除に直面することを意味し、同時に親自身の立場や評価に影響を及ぼすからです。
3. 支援・療育の回避:支援を「負け」や「恥」と捉えてしまい、制度利用を避ける。
結果として、療育や支援級といった制度の利用を避け、普通級にこだわるケースが増えてしまうのではないか、と思います。「支援を受ける=負け」という誤った価値観もあるかもしれません。
4. 機会損失:療育やサポートを受けられず、子どもの成長機会が失われる。
支援を回避した子どもは、学習やコミュニケーション、感情コントロールなどに必要なサポートを受け損なう可能性が出てきます。
これは成長期の大きな機会損失です。
5. 適応困難の顕在化:学校や社会でのトラブル、孤立、精神的不調など。
結果的に、学校や職場でのトラブル、孤立、精神的不調といった適応困難が表面化しやすくなる可能性があります。
6. 偏見の強化:その困難な事例が「やはり」と偏見を補強し、悪循環に戻る。
こうした困難な事例が「やっぱり障害者は…」という既存の偏見を補強し、社会の態度がさらに硬直化します。
そして①の偏見に戻る、という悪循環が完成します。
この循環の皮肉
この構造の皮肉な点は、差別を避けようとする行動が、差別を正当化する結果を生んでしまうことです。
親は子どもを守ろうとして、あるいは障害を受け入れられなくて支援を避けたとしても、その結果として子どもが困難を抱え、社会からさらに排除されやすくなる、そういうことが起こりうるのではないか。
偏見を理由に支援を避けたことが、偏見の根拠を作ってしまう、そんな危険性を感じました。
私自身の経験
私自身療育が遅れたことを現段階では最も後悔しています。その時の考え方などはこちらの記事にまとめています。



おわりに
確かに、「偏見」という負のスパイラルは存在します。しかし、支援を受け、子どもが前進する姿を目にすることで、「不自由ではあっても不幸ではない」という確信へとつながります。偏見の連鎖は、希望の連鎖へと変えられる、その可能性を信じています。
親としても社会の一員としても、子どもたちが適切な支援を受けて前に進む姿は本当に大きな希望になります。その姿を見たとき、偏見の循環が断ち切られ、「不自由ではあっても不幸ではない」ことを確信できるのだと思います。
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